大津神社について

大津神社鎮座の起源は「小津の泊まり」に祀られた小祠であったといわれます。
その後鎌倉時代に八幡大神を勧請し、以来「若宮八幡宮」と称していましたが、明治四十一年に、 宇多神社、神明神社、菅原神社の 三社を合祀し、事代主神社を境内社として合併し、式内粟宮を 境内に移築した際に、「大津」の総鎮守として、「大津神社」と改称されました。

大津の由来

「大津(おおつ)」はもともとは 「小津(おづ)」と呼ばれていたようです。
「小津」は、国津・国府津から転じたものといわれ、 和泉国の国府の外港という意味です。
小津の港は、古くから畿内地方における良港として広く知られていたようで、『土佐日記』に、

五日。けふ、からくして、いづみのなだよりをづのとまりをおふ。
まつばら、めもはるばるなり。これかれ、くるしければよめるうた、

ゆけどなほゆきやられぬはいもがうむ   をづのうらなるきしのまつばら

と書かれてあり、また、『更級日記』には、

冬なりて上がるに、大津といふ浦に、舟に乗りたるに、その夜雨風、岩もうごく許降りふゞきて、神さへなりてとゞろくに、浪のたちくるをとなひ、 風のふきまどひたるさま、恐ろしげなること、命かぎりつと思(ひ)まどはる。岡の上に舟をひき上げて夜をあかす。
雨はやみたれど、風猶ふきて舟出ださず。
ゆくもなき岡の上に、五六日と過ぐす。
からうじて風いさゝかやみたるほど、舟のすだれまき上げて見わたせば、夕汐たゞみちにみち來るさま、とりもあへず、 入江の鶴の、こおしまぬもおかしく見ゆ。
くにの人びと集まり來て、「その夜この浦をいでさせ給(ひ)て、石津に着かせ給へらましかば、やがてこの御舟名殘なく なりなまし」などいふ。
心細う聞ゆ。

とあります。

土佐日記は承平五年(935)に書かれたもので、この頃までに、「小津」という地名は存在しており、それより約百二十年後、康平二年(1059)頃、 更級日記が書かれた頃には、すでに「大津」と呼ばれていたことがわかります。
その後、明治二十二年(1889)町村制により、泉郡(のち泉北郡)大津村となり、 大正四年(1915)に町制を施行し大津町となりました。
また昭和十七年(1942)の市制施行では、既に滋賀県に大津市があったために、大津の上に泉州の 「泉」をつけて泉大津市となりました。
このように、大津の名称は変わることなく伝えられてきたのです。

若宮八幡宮の由緒

小津の泊りは、その昔畿内地方に於ける良港であったことは、『土佐日記』『更級日記』その他の文献からも知ることができます。
また、小津の泊りの付近より、和泉府中に通じる道が現在も残っており、この道を、御幸道、みゆき道、勅使道、おなり道等と称しています。
神功皇后が府中へ御幸ましますときにも、小津の泊りより御上陸御上船になり、この御幸道を御通行になったと伝わります。
当時の民人は、 おそらく毎に御送仰申し上げ、皇后の御盛徳を親しく仰ぎ奉ったことでしょう。
大津神社境内は、昔から「鴉の森」と呼ばれています。大津町史には、

神功皇后御上陸の砌り、里人は皆黑裝束にて、御送迎申し上げたるなり
而してこの松林中に拜觀者充ちたるなり。其の人々の様子烏の如くありしを以て、烏の森と云ひ傳へたるなり

とあり、当時の民人は、 神功皇后の御幸ごとに御送仰申し上げ、皇后の御盛徳を親しく仰ぎ奉ったことでしょう。

若宮八幡宮の創建年代については、明確な文献はありませんが、この頃に小津の泊りの一地点に鎮座したものであるといわれています。
また、別に伝わる一説では

靈亀二年四月、河内國大鳥日根和泉三郡を割きて、和泉監を置かれたる當時の監たりし、
阿部朝臣廣庭八世の孫、三郎忠清、天喜年間、源頼義に従い、 奥州安部頼時貞任等を追討せし功により、
京に還り和泉郡下條郷を領し、和泉三郎と称するに及び、頼義が、鎌倉に鶴ヶ丘八幡宮を創建せる例に倣い、
康平七年、此地に八幡大神を鎮祭せり

といい、この時より八幡様としておまつりされてきました。
明治の中頃まで、泉三郎奉納と記された石燈籠が一基、若宮八幡宮境内にあったといいます。

式内粟宮の由緒

『続日本紀巻三十四』に、

寶龜七年六月甲子。近衛大初位下粟人道足等十人賜姓粟直。

とあります。
粟氏は忌部(斎部)氏の一族で、四国の「阿波」、千葉の「安房」など太平洋沿岸に勢力を誇っていました。
この粟氏の一派、粟直の人々が、大津に来住して忌部(斎部)氏一統の祖神、天太玉命をまつったものが即ち、粟神社です。

天太玉命は、天照大神が天岩戸におこもりになったときに、岩戸の前で太占(ふとまに)と呼ばれる卜占をし、大きな勾玉を連ねた玉飾り、大きな鏡、楮(こうぞ)で織った白和幣(しらにぎて)と麻で織った青和幣(あおにぎて)を下げ垂らした真榊を捧げ持って大神の出現を願ったと伝わります。
爾来、占いの神、祭具の神として敬われてきました。

『延喜式巻第九』に、

和泉國六二座 和泉郡廿八座(並小) 粟神社

とあります。
粟神社はその昔、地方一円の鎮守として栄え、また式内社として広く崇敬を集めていたといいます。
しかし、明治の初め頃には境内地も縮小して後にはわずかに一小祠があるだけとなり、明治新政府により明治41年4月に大津神社に合祀。
社殿は境内の現地に移築されました。

事代主神社の由緒

事代主神社は、天正年間に藤林定吉與左衛門と、眞鍋某とが、かねてから崇敬していた摂津西宮の神霊を勧請して奉斎したものです。

また事代主神社の末社に、広田神社と住吉神社があります。
広田神社は、事代主神社奉斎と同時に摂津広田村より勧請して奉斎したものです。
住吉神社の由緒は不詳です。

藤林家系譜に、

大津邑宇多下條兩郷の鎮守、蛭兒明神之本社者、下條郷之住眞鍋某與定吉相共、
豫尊崇攝州武庫郡西宮神靈、天正年中初所奉勸請於當邑。小社廣田明神、自攝州武庫郡廣田村、
與本社同時、奉勸請之、爾来例年仲冬神事之、砌令藤林眞鍋兩家之子孫、爲神前在右之座上。

とあります。
現在も十日戎の祭礼には、商工業繁栄の守護神として、氏子の崇敬を集めています。

宇多神社の由緒

宇多神社の由緒は、それを記す文献が現存せず詳しくはわかりませんが、伝わるところによれば、その昔、小津の泊りの一地点に海上風波鎮護の神社として、素盞嗚尊をまつったものであるといいます。

神明神社の由緒

天正年間、根来戦乱の際に、淡輪六郎の父、淡輪大和守徹齋が形勢不利を悟り、一族郎党十八家を率いて、大津に来て隠れました。

その時、同家の氏神、神明神社の神像および、菩提寺の本尊、弥陀三尊の木像を奉じて来ました。
弥陀三尊の木像は、新たに一寺を建立してこれを安置しました。これが現在の来迎院(泉大津市本町)です。
また神明神社の神像は、新たに一社を創建してこれを奉斎しました。これが即ち神明神社です。

以来、淡輪家の氏神として崇敬されてきたものが、次第に崇敬者が増え、遂に地方一円の神社となったものであるといいます。

菅原神社の由緒

享保年間に海岸にすんでいた漁師が家を建てる際に棟上げしたところ、これが急に倒壊しました。
不審に思い占いを請うたところ、「地中に埋もれる物あり。」と言われ、地中を掘ってみると、高さ二尺ほどの青石に「天満宮」と刻された碑が出土しました。

そこでこれを出屋敷に移し祀ろうとしたが、どうしても動かすことができずそこに小祠を建ててこれを奉斎したといいます。

現在では、学問・知徳の神として崇敬されています。